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聖典による学び (1)

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聖典による学び 梯實圓和上

聖典による学び_(1)
聖典による学び_(2)
聖典による学び_(3)
聖典による学び_(4)
真仮論の救済論的意義
教行証文類のこころ
親鸞聖人の生命観
ウィキポータル 梯實圓

梯 實圓和上

 『浄土真宗聖典』についてお話をするわけですが、特に本日は、「聖典」とは何か、ということを中心にお話をいたします。そして、「聖典」にはどのように接したらいいのか、また「聖典」を拝読することがどういう意味を持つのか、ということなどをめぐって話をしていきたいと思います。

 先ずこの「聖典」という言葉でございますけれども、「聖教」ともいいます。「聖典」という言葉は、呉音で読みますと「ショウテン」と読みますけれども、一般には漢音で読んで「セイテン」といっています。「聖教」これは呉音で読みまして「ショウギョウ」といい慣わしています。「聖典」という言葉は親鸞聖人の『教行証文類』の「序文(総序)」の終わりに

 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。真宗の教・行・証を敬信して、ことに如来の恩徳深きことを知んぬ。斯こを以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなりと。

 という言葉で結ばれておりますが、そこに「西蕃・月支の聖典」(ショウデン) という言葉が出ております。「西蕃・月支」というのは、要するにインドというくらいの意味で、インドから伝えられた「聖典」ということです。

 また「聖教」という言葉は『歎異抄』に出て参ります。その第十二条に、

 他力真実のむねをあかせるもろもろの正教(聖教)は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。

 という言葉が出ており、そこに「正教」といわれているのは「聖教」のことです。また「後序」には

 故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。

 といい、聖教の読み方が注意されています。このことについては後にまた申し上げることがあるかと思います。

 その『歎異抄』の一番最後の所に、「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり」という蓮如上人の識語があります。現在残っている『歎異抄』の古写本では、蓮如上人の写本が一番古いのですが、蓮如上人は、晩年になって、ご自身の写された『歎異抄』に上記の一文をつけ加えられたのです。

 「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり」といわれた言葉によって、真宗では『歎異抄』を「聖教」として崇めるようになったのです。その意味でこの文章は重大な意味を持っているわけです。そして最後に、「無宿善の機においては、左右なく、之れを許すべからざるものなり」と注意書きをされています。これは心なき人々に無造作に見せてはいけない、おそらく真宗を誤解をしたり、謗ったりするおそれがあるからです。とにかく、こういうふうに「聖教」という言葉が使われています。

 そこで「聖典」「聖教」という言葉で顕わしておるものが一体何であるのかという事から、先ず始めていかなければなりません。ただここで「聖典」或は「聖教」といった時に、これはただの書物ではないという事を顕わしております。先ずその事を知っておいて頂きたいと思います。

 元々この「聖教」・「聖典」というように「聖」という字が付いていますが、この「聖」という言葉は、重大な意味を持った言葉なのです。単なる形容詞ではございません。

 「聖」というのは曇鸞大師は「聖」というのは「聖智」の事であるといわれておりますが、これは人間の虚妄なる分別を超えて真如法性、いわゆる永遠の真実そのものを証った智慧です。その証りの智慧の事を「聖智」と呼ぶのです。

 そうゆう証りの智慧を獲得した方を聖者といいます。こういう聖者といわれるのは、根本無分別智、或は般若といわれるような智慧を持っている人です。・パーラミィタという、プラジュニャという言葉です。「般若(プラジュニャ)」というのは、私達が普通考えていく概念的思惟というものと全く質の違ったものの捉え方です、そういう能力を「般若」という言葉で顕わしております。そういう「般若」とか、「無分別智」といわれるような、智慧の眼を開いた方を聖者というのです。

 普通、私達がものを考えるときには、物ごとを分けて考えます。私、あなた、彼というふうに、また生と死、愛と憎しみ、敵と味方、善と悪、過去と未来と現在というように、他の者と区別して物事を捉え、認識して行くわけです。いわゆる概念的思惟というものです。  ある事柄を表す言葉、すなわち概念というものをもって私達は考えております。ところで概念というものは、例えば遠いと近いという場合、ずーっと続いている事柄をどこかで勝手に分けてあそこは近い、あそこは遠いというように区分けするわけです。


 つまり「言葉」でもってものごとをを文節し、判断を行い、そして理解していく訳です。いわゆる概念的思惟といわれるものです。こういうふうに「言葉」でものを文節して、そして知る事を分別と仏教では顕わし  こういう「有愛」にせよ「非有愛」にせよ、いずれも正しく「いのち」を捉えていない迷いであると仏さまはおっしゃるのです。

 釈尊が、「生・死」を超え、「愛憎」を超えていくために、六年にわたる深い思索と厳しい修行を繰り返して、そして三十五歳の時におさとりを開かれたといわれていますが、それはこの生と死を同じように肯定できる精神の領域を開かれたことでした。

 生に執着して死を拒絶するというのでもない、死に執われて生を拒絶するというのでも無い。寧ろこの生と死を一望のもとに見通して、生きる事も素晴らしいが、死ぬ事だって素晴らしいのだといえるような、そんな領域に到達されたわけです。

 愛と憎しみを超えて、一人一人のすばらしい「いのち」の輝きを見る目を開かれたのでした。これがさとりの智慧というものでしょうね。

 生きることも素晴らしいが死ぬることだって素晴らしいのだ、決して生を拒絶して死を願望する事も無い。また生に執われて死を拒絶する事も無い。生と死をそのまま肯定して、しかも意味有らしめていくような精神の領域を開く、それをさとりというのです。

 それは生と死を分け隔てする分別を超えて、そして生と死を一望のもとに見通せるような、そうゆう領域を開いたわけですから、その智慧を無分別智と呼ぶ訳です。

 これが対人関係の場合は愛と憎しみを超えるということになりましょう。私達は誰かを愛し、また誰かを憎みながら生きています。それは愛と憎しみという分別の産物です。

 つまり分別というのは私の存在についていえば生と死、対人関係についていえば愛と憎しみ。倫理的な価値観についていえば善と悪、論理な判断でいえば肯定と否定、そして存在一般についていえば「有」と「無」ということになりましょう。取りあえず対人関係では「愛」と「憎しみ」という事ですね。皆さんにもやはり有るでしょう。

 好きな人ばかりが居る訳ではない、大体好きな人か十人おれば、嫌いな奴も大体それくらいはいるものです。バランスを取っている訳です。「あいつさえいなければいうことないのに」と思う人が一人や二人はいるものです。

 しかしその人がいなくなってヤレヤレと思ったら、ちゃんと替わりが出てくる、もっと程度の悪い奴が替わりに出てくるというようなものです。娑婆というのはそういうように出来ています。それでバランスを取っているのでしょうね。

 良いばかりの状態があるわけもないし、悪いばかりの状態が続くわけでもありません。大体バランスが取れているようです。

 ところで、このような「愛」と「憎しみ」というのは何故生まれてくるのかというと、自分の都合を中心にしてものを考えていくからでしょう。当然の事ですが「愛する者」というのは自分に都合の良い人です。その人が存在している事が私にとってプラスになる、その場合、その人は「好きな人」・「愛する人」という事でしょうね。いつまでも元気で生きていて下さいというのは大体そういう人に対して云うことです。

 反対は何かといえば自分に都合の悪い奴、あいつが生きているというのは胸糞が悪いという人が居りますね。早く死んでくれたら良いという、こういう人が何人かいるわけです。これは自分にとって都合の悪いものです。そうすると「愛」と「憎しみ」が生まれてくるその根源には自分にとって都合が善いか、都合が悪いか、という事でしょう。

 そうするとその根底にあるのは自分の都合を中心にしてものを考え、判断することで、それを仏教では「無明・愚痴」と名付けているのです。

 こうして私どもは、順境に対して貪欲・愛を起こし、逆境に対して憎しみ、つまり瞋恚を起こす。その根源に自分の都合を絶対のものと考える愚かさがある。それを愚癡と呼ぶ。それを貪欲・瞋恚・愚癡の三毒と呼ぶわけです。    このような「愛」と「憎しみ」、その根底にある自己中心的な発想、それを突き破っていく。そしてこの「愛」と「憎しみ」を超えていく、これが仏道というものです。そこで悟りとは何かといえば、それは怨親平等の心であるといわれます。親鸞聖人の「和讃」の中に

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし

 という言葉があります。『諸経和讃』です。これは『涅槃経』というお経にある言葉です。平等心とは怨親平等の心ということです。自分にとって都合の悪い奴も、自分にとって都合の善い者も全く同じ重さで見ていけるような心境ですね。

 私を大切にしてくれる者も、私を抹殺しようとする者に対しても同じ重さで、それを見る事が出来るような心境、これを平等心というのですね。いわゆる「怨」とは怨憎、「親」は親愛、その怨憎と親愛を平等に見ていく、そんな境地、それを悟りというのであって、その悟りの実現に向かっているのが浄土(安養界)に往生するということであるといわれるのです。

 ここでもやはり愛と憎しみという、真反対の立場にある事柄を突き抜け、それを超えていく、そしてその二つを超えて両者を平等に見ていくような心、それが悟りであるというのです。しかしこれはもはや分別の中からは出てきません。もっと根源的に、「有」と「無」とを超えて初めて実現することがらなのです。

聖典による学び (2)